どこにでもいるような女から、つまらない男へ

覚えていますか。
湖のほとりでふたりで
喫茶店やろうって話のこと。
随分老いたあとで、
お互いが愛しぬいた伴侶を亡くしてから、
再会してお互いの白髪を笑い合いながら
きっと意気投合をして、
そしてふたりで住むでもなく、
大きな木がたくさんある湖のほとりで、
雨の日だけに開く喫茶店をやろうっていう、話。
すこし苦いお酒だったことを覚えているのに、
その名前は忘れてしまいました。
わたしはあれから、
あなたに歌った歌をちがう人に3度歌い、
地獄のような、と言いながら
ちっとも地獄でもなんでもない日々を
しれっと過ごし、
あのとき狂ったと思った人生は、
出会っていても出会っていなくても
どっちみち狂っていたと知りました。
あの夜、喫茶店のために再会するのを
どこの湖かなんて決めもしなかったのは、
決める気もなかったからで、
いまさらこういうことを話すのは
ちっともお洒落ではなく、
わたしはあなたの物語にされることを、
心の底からごめんだと思いました。
覚えていますか。
忘れてくれていたほうがありがたいけれど。
今日の駅前の雨を、
その架空の湖できっと降るような雨だと
思いながら交差点を歩いていたら、
あなたの幻をみました。
とてもやつれているところが
似ていると思いましたが、
二度見つめたらちっとも似ていませんでした。
架空の湖の話をなんの気なく
思い出してしまったことに驚いて、
こうして手紙を書きます。
思い出すことに
躊躇が必要なくなったということは、
つまり、残念ながら、そういうことです。
あの朝新宿のホテルに捨てたピアスは
もう焼却されたでしょう。
つかれて寝転んだ芝生には
知らないふたりが
肩を寄せ合っているでしょう。
酔っ払って知りもしない社交ダンスを
踊った公園にいたホームレス、
まだ生きてるのかな。
あのときの炎のような気持ちは
なんだったのだろう。
燃え尽きたにしては
あまりにも短かったように思います。
ほんとうに燃えていたのでしょうか。
わたしはもう、
あのときの湖を忘れることはありません。
忘れることがないということは、
忘れる必要もないほど、
わたしにとっては
どうってことのなかった話に
成り下がってしまったということです。
別れ際に、雨が降ったら思い出してね、
と言うのはわたしの常套句なのだけれど、
あなたがあまりにも
感銘を受けたような表情をしたせいで、
誰にでも言うせりふだと
白状できませんでした。
あなたがそうであったように、
わたしも嘘をついていた、って、
いまさらそんなことで
勝ったようなきもちに
なれるわけでもないのにね。
いつどこで降ってもおかしくないような、
ありふれた雨。
この手紙が、わたしがあなたに宛てて書く
最後のものになりますように。
おげんきで。
霧雨の夜に
【書き手】
よみ人しらず